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モノ好きのための展示~オーダーメイド:それぞれの展覧会~


ドミニク・ゴンザレス=フォルステル 無題(映画について)

京都市美術館で開催されているモネ展は大行列ですが、その正面の京都国立近代美術館で開催されている、待ち時間なし!オーディオガイドなし!館が持っているコレクションを並べ替えただけの省エネ展示(ほめてるよ!)、オーダーメイド:それぞれの展覧会展に行ってきました。

本展示では、国立京都近代美術館のコレクションが、地域や時代、メディアなどの従来のくくりではなく、MoneyやObjectなどのコンセプトごとに再構成され、展示されており、どこからでも見て回れるという自由な動線になっています。

展示の様子

まあ、普通に入口から見ていこうということで…入り口にはReorderと題されたコーナーがあり、そこには、都築恭一の着倒れ方丈記という写真作品が展示されています。決して上流階級ではない人々が、ファッションブランドにはまってしまい、狭い空間でその服に囲まれて暮らす様子が写真と解説で表現されています。

都築恭一 着倒れ方丈記

​服のために、食も住まいも犠牲にした暮らしは、ある意味禁欲的です(笑)。しかも彼らは着心地や着飾るという意識より、デザイナーのコンセプトに対するリスペクトからこの禁欲生活を送っているという...ある意味彼らが買っているのは服ではなくコンセプトです。

Reorderは再注文というだけでなく、再整理という意味もあります。モノを集めているのに、物欲からではない、という再整理は、現代アートにも通じるところがあるのかもしれません。

例えば、このデュシャンの既製品の帽子掛けを使った作品は、美しい影がまるで主役かのように展示されています。既製品にコンセプトを持たせることでアート化したデュシャンですが、彼の作品をこのように展示すると、我々はモノを見ているのか、コンセプトを見ているのか分からなくなります。

マルセル・デュシャン 帽子掛け

ではモノがなくてもいいかといわれると、それも違うんだな。他の人は分かりませんが、私は言葉で語られると萎えちゃうタイプです。やはり、モノにコンセプトが宿るという状態が美しいと考えています。モノは言葉と違い、伝わらないことも多いですが、伝わった時は言葉にできないような部分も伝わります。

アートの本質はそのようなモノによるコミュニケーションなのかもしれません。

美術館はよく解説が少ないと言われますが、本展示はコーナーごとのコンセプト名以外は一切表記無し。解説無しです。こういう美術館の態度が時にお高い、小難しい印象を与えるんでしょうが、モノを見る、モノを愛でるにはとても心地よい空間となっています。

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さて、私の美術館巡りにずっと付き合わされている娘ですが、アート鑑賞の手ほどきなど一切せずにこれまで文字通り黙々と展示を見るのに付き合わせていました。わが子ながらかわいそうだ...

それでも、今回の展示は楽しめたようで、IDのコーナーで澤田知子のID400、色んな姿で写った証明写真の作品を見て、「これ全部同じ人じゃない?」って興奮してたし、Colorのコーナーでは私よりも早くカラフルなドットがマネキュアだって気づいていました(マネキュアじゃないと思ったら、本当にマネキュアだった。)。

澤田知子 ID400

笠原恵美子 MANUS-CURE

へー、経験を積むと何とかなるんだ、って思いました(他人事)。

もちろん、学校でやる美術館教育は動機づけの部分が多いから、最初からこんな展示ではそっけなさすぎます。

それでもただ見るだけで、だんだん楽しめるようになるんだったら、接触回数を増やすというのは、これからの文化教育にとっては大切な教育視点なのかもしれません。結局、小難しい内容を分かり易く伝えるよりも、小難しいものを小難しいままにしながらも、その小難しいことに付き合ってもらう機会を増やす方が、魅力を伝えやすいのかもしれません。

そういう意味では、欧米であるような公園のような美術館というのは、やっぱり教育普及としての意義はあるのかもしれないな、と思いました。日本でも金沢21世紀美術館とか、水戸芸術館とか、立ち寄ることを教育普及のプログラムに組み込んでいる館がありますが、その効果や意義というのはきちんと検証した方がいいのかもしれませんね。

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