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芸術祭の名残~アートへの分割投資~


久しぶりに出張してきました。行先は高松。
高松は、ART SETOUCHIの会場の一つです。
うどんとアートで攻める高松、ぶれない高松。
ART setouchiは3年に一度、瀬戸内国際芸術祭を開催しているのですが、今年はその開催年ではありませんでした。
しかし、開催されていない期間においても、高松には芸術祭の際に制作された作品を見ることができます。
高松築港駅の駅前にはジュリアン・オピーのアノニマスな人物彫像が!
地元の石材店とコラボして作られた石像は、ペラペラなのに重厚感のある、不思議な造形です。
この匿名性と個性の間を行き来する像と一緒に通勤、通学する人々をみることができるという、駅前リッチのシュールさ。遠目から見ると、私が私じゃない記号性を想起できて、駅前におく彫刻として、ここまで文脈生かした作品あるでしょうか。
私も通勤したい!そして私と私の持つ一般化できるものの間でフラフラしたい!
また、港には、大巻伸嗣のピカピカのトーテンポール(?)が。
私は勝手に、こけしやコマなどに使われる、ろくろを回してストライプを描く絵付け技法をオマージュしたのではないかと考えています。
モダンなのに見慣れているような、不思議な造形です。
さて、瀬戸内国際芸術祭の主たる舞台である、島々にも、芸術祭の名残は残されています。
私は今回、遊んでばかりもいられないので(遊んでない!ちゃんと学会で発表した!)、一番近くの女木島に行きそれを確認。
永遠に続くかもめの風見鶏は、木村崇人の「カモメの駐車場」という作品。
インスタ女子ならもっとかわいくとれただろうけども、あいにくの天気の悪さも相まって、おどろおどろしい感じになっている...でも、ご存知の通り、群れる鳥というものは得てして不気味なものですから。
さて今回痛感したのは、やはり瀬戸内は芸術祭の使い方がうまい、ということです。芸術祭を短期的なイベントに終わらせず、パーマネントな作品を残すことによって、芸術祭が行われていない間も瀬戸内になんとなく芸術祭の気配を残しています。
脱成長時代において、地域にパブリックアートを設置することはたやすいことではありません。芸術祭とは、短期的なイベント効果も見込める活動ですが、同時に街のアート整備のための分割投資という面もあるのではないでしょうか。徐々に街のアートインフラが整ってきている瀬戸内地区から、分割投資という新たな文化政策の戦略を感じました。
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