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建築との距離感@「建築の日本」展


さて、批判が多いことでも話題の、森美術館で開催中の展示「建築の日本」展に行ってきました。

*批判に対する記事が最近出ていました。

藤原徹平(2018)日本の景色はいかにして築かれたのか? 「建築の日本展」から、日本建築史を俯瞰する

ま、ただでさえ主題に「日本」を入れているのに、その上副題に「その遺伝子がもたらすもの」とか入れちゃっているからさ…そういう前のめりな題名つけたら怖いって。

さて、では中身はというと、リサーチをしっかりしている真摯な内容なので、怖がらないで!特に前半セクションの寺社仏閣、茶室などを扱った「可能性としての木造」と「越境する美学」は、日本における建築の前提を共有する前座として機能しています。

特に日本の建材といえば木材であり、素材の延長線上に建築技法がある、この当たり前な部分を丁寧に扱っています。日本の建築の線的な様式は、美学以前に、素材の影響が強いという部分を最初にクローズアップしているところなど、題名は前のめりですが、展示姿勢は意外にフラット。

特に面白かったのは大工秘伝書の展示。木組みなど職人技に頼る部分が多かった日本の建築技法ですが、江戸時代、印刷技術の普及によってオープンソースとして誰でも利用できるようになると、建築よりも建築の装飾に職人の力点が移行していく、との解説があり、情報の共有はいつの時代も創造の原点なのだ、と実感。

そんなはっちゃけちゃった江戸時代の代表格と紹介されている、会津さざえ堂。らせん上になっている回廊を歩きながらお参りする奇想建築、思わず夏休みに行っちゃったわ。

さざえ堂の入り口には、「多分、西洋建築のらせん階段の知識が、書籍かなんかでこっそり持ち込まれ、参考にしたのではないか、」という新聞記事がわざわざ掲示されていました。

…だろうな。

でも、それでいいじゃん、らせん階段を知って、それじゃ!って感じでこの建築建てようと思う心は十分にクリエイティブ(狂気を含む)だと思う。遺伝子は(有性生殖の場合)混じることが前提ですしね。

また、ちょうど、来館時期に私がお茶会形式のサイエンスコミュニケーション、差の湯の会の準備最中だったので、お茶室の展示はとても勉強になりました。千利休の茶室≪待庵≫が六本木ヒルズの見晴らしのいい部屋に置かれているのは壮観。利休の自然観と対峙する圧倒的なビル群、このお茶室で都市を見ながらたたずむことも、利休であれば良しとしたところでしょう。

もう一つ紹介されていたお茶室の孤篷庵忘筌なんて、下方だけを吹き抜けにしていて、期せずして差の湯の会で今回建てたお茶室「差室」とコンセプトが同じだったのでびっくりしました。かっこいいことは、みんな昔の人がやっちゃってるなw

(こっちは差室の写真、孤篷庵忘筌は写真取れなかったので、リンクを見てください。)

そして、後半は、とくにセッション5の「連なる空間」とセッション7の「集まって生きる形」で、住まう、集う、過ごす、という建築の中で行われている活動と共に建物が紹介されており、その道具的な描き方はとても興味深かったです。

考現学で人々の生活をボトムアップで見つめた、今和次郎が東北の暮らしを調査した結果生み出された《雪国試験家屋》や、みんなが働き、集える場所として設計された《恋する豚研究所》(障がい者総合支援法の修了継続支援A型施設)などは、うだうだ考えていないでもうモノ作っちゃえばいいじゃん!的なノリがあり、建築の課題解決の明るさが感じられます。そして建築は、あくまでも初期のエンジンの役割をして、そこでどんな活動が行われるのかは人びと次第でしょう、って最後まで面倒見ない距離感も、押し付けがましく好ましい。

ただ、押し付けがましくないけど、結局、私たちは、気配が感じられる空間や居心地の良い空間によって、活動へのトリガーが引かれます。人間と人工物が互いに自律しつつも影響し合うところが、建築の道具としての機能かもしれません。そう考えると、建築を建てるということは、自分の活動の軸を決めることとも通じます。それが暮らしであっても、仕事場であっても、集いの場であっても。

結局そういう深い問いに向き合わなきゃ建築なんて建てられないんだ、って学んだだけでも十分実りの多い展示でした。


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