top of page

ディセンサスな対話@あいちトリエンナーレ2019


あいちトリエンナーレ2019はいい芸術祭だった、と言いたい。ただ、そんな芸術祭のすばらしさをわかっていないなんてけしからーん、って怒るのは対話的ではないので、どうしてこんなに問題がこじれているのか…を考えてみました。

コンセプトを絞った芸術祭~ジャーナリズム的アート~

まず、あいちトリエンナーレ2019のコンセプトは「情の時代」、どんな作品もごった煮できる芸術祭お決まりの抽象コンセプトかと思いきや、マジでこのコンセプトを貫いている。端的に言えば、「アートで情報を伝える」、つまりジャーナリズムのメディアとしてアートを用いているのが特徴です。

高嶺格《反歌:見上げたる 空を悲しも その色に 染まり果てにき 我ならぬまで》 2019

廃校になった高校のプールの底をくり抜き、垂直に立たせた作品。実は、この壁の高さは、ドナルド・トランプがメキシコとの国境の間に建設しようとする壁の高さ。そびえたつ壁は圧力をもって私たちに迫ってくる。若者たちが通う高校という日常に突如国同士の分断を想起させる壁が出現したことによって、日常にある非常を物語っているようである。

タリン・サイモン《公文書業務と資本の意思」》 2016

栽培場所、栽培時期など自然では決して共存できない花々で作られたフラワーアレンジメント。その写真の横にひっそりと添えられるのは、国同士の契約書類。そして観客は、契約によってマネーロンダリング、政治汚職などが堂々とまかり通っていく歴史的事実を、入り口で配布される小さなハンドアウトによって知るのである。実はこの美しいフラワーアレンジメントは、契約を結ぶ調停式の写真から再現されたものだった。

あいちトリエンナーレ2019では重厚な情報がアートという表現を通して、静かに、しかし真摯に語りかけてくるわけです。アートが取り扱うテーマは多岐にわたりますが、社会的にディスカッションしなければ、考えなければならない問題を、集中的に扱う、しかも芸術祭の規模で、という点で、画期的だったと思います。

インスタレーションというアートの表現手法

今回のあいちトリエンナーレを巡る出来事において、アートが政治的テーマを表現してはいけないとか、表現の自由とか、そういう高尚な議論というより、もっと感情的な行き違いがあったように思えます。端的に言えば、平和の少女像を展示したことが、一部の人たちの怒りと反感を買ったのでしょう。

平和の少女像は「表現の不自由展」というキュレーション展示の展示品であり、それは単体の作品として展示されてはいなかったようです。単体作品ではなくキュレーション内の一作品という位置づけは、作家、キュレーターからの「文脈の一部として見てね」というメッセージです。若干乱暴な例えですが、小説の中で登場人物が反社会的な言葉を発してもそれがその小説の全体のメッセージとは必ずしも合致しない、というところでしょうか。

ただ、インスタレーションやキュレーション的な作品の鑑賞方法を、鑑賞教育は現代アート鑑賞者以外にきちんと伝えてきたのかというと、そこにも疑問があります。映像型の作品、インスタレーション型の作品、そして今後増えていくであろうソーシャリーエンゲージドアートのようなプロジェクト型の作品は、ヴィジュアル言語と呼ばれる視覚的情報を読み解くだけでなく、複数の資料、場面を組み合わせて解釈するというより複雑な鑑賞が必要になります。

青木美紅 《1996》 2019

人工授精で生まれたことを知ったった作家が、クローン羊のドリーの地元や、旧優生保護法によって強制不妊手術を受けさせられそうになった女性を訪ねたドキュメントと共に、日常的な風景を「刺繍」や「はりめぐされた糸」で表したインスタレーションが展示されている。科学技術と共にどんどん管理が可能になってくる生殖という行為を情報で伝えるとともに、糸で編みこまれた日常の風景には紡ぐという行為に対する楽天的な怨念のようなものが伝わってくる。

オルテガは「芸術の非人間化」という論考の中で、新芸術がもたらす芸術評価の分断は好き、嫌いではなく、「大衆が理解できない」という分断であるということを指摘しました。新芸術は、人間的な感性で見ることを許さず、批評性や暗喩性に立脚することによって、ますます分かりづらくなっており、大衆の反感を買っていくだろうという指摘は、現代芸術の未だ解決できていない課題です。そのうえ、現代アートは表現手法が重層化し、さらに分かりにくくなっているのです。

対話の場をどう作っていくのか

今回の作品群は問題提起型の作品、つまりスペキュラティブなアート作品が中心になっています。アートが議論のトリガーになることはアートの役割の一つでしょう。しかし、問題提起後の対話はどのように回収されるのでしょうか。

芸術と政治を巡って論じているランシエールは、「解放された観客」の中で芸術が批判的な作品を用いて観客に「気づかせる」という行為自体、パターナリズム的、つまり本人の意思を無視して自分たちの思想を押し付ける、であると指摘しています。彼はそのようなパターナリズムに代わって「ディセンサス」、つまり異なるものを異なるままに留め置く行為に可能性を見出しています。彼の紹介したマラルメの言葉に「隔てられ、われわれはともにある」という言い回しは、グローバルかつ多様な我々の一つの共存の仕方なのかもしれません。

その際、美術館はどのような対話の場になるでしょう。私が現在携わっている科学技術を巡るサイエンスコミュニケーションは、つい意思決定や課題解決を生み出す「コンセンサス」方向に対話の場を作りがちです。一方、アートが持つ対話がより「ディセンサス」な対話を可能にするのであれば、そこには新たな対話の可能性が開かれています。しかしディセンサスな状態を維持すれば維持するほど、ますます主張はぼやけ、分かりにくくなるという矛盾もはらんでいます。みんなの意見を聞くだけ聞いて、いろんな意見があるね、で終わる対話式鑑賞法は、今ある中で一番練られたディセンサスな対話の手法ではあるものの、発話を超えて対話化する工夫については今後考えていくべき課題でしょう。

あいちトリエンナーレ2019は、これまで現代アートが抱え続けてきた断絶が表面化したにすぎないのかもしれません。そういった面では、ジャーナリストをディレクターにすえた今回の挑戦は、問題の表出という点では成功だったと思います。遅かれ早かれ、このことは考えていかなければならない課題なのですから。

© 2016 Museology Lab

bottom of page